モジリ兄とヘミング

越塚学MANABU KOSHIZUKA

学の恩返し

1988年、バブルの全盛期。
父親曰く、昭和の終わりを告げるように激しい雨と雷の鳴り響く、蒸し暑い夏の夜に産声をあげた…らしい。

両親の愛情を一身に受けた僕は、とても自分勝手で、マイペースな、典型的な次男坊として成長した。幼少期は動物、宇宙、恐竜、絵画、登山など生物や自然に興味をもち、博物館やプラネタリウム、動物園など父はどこへでもつれていってくれた。

そんなある意味、多趣味な僕に父は「将来は芸術家だな」と言った。すぐに影響を受けた僕は小学校の卒業文集で、夢は「芸術家」になることと記載していた。
たぶん意味などまったくわかっていなかった。
父に教えてもらったその言葉の雰囲気がただただ気に入っただけだった。それくらい僕の中で父の影響力というものは大きかった。

父親曰く、子どもらしい子どもとして成長していった僕はとても純粋だった。
今思えば父は純粋でわがままな僕の願いをことごとく叶えてくれている。
彗星が見たい!(小学生の頃ヘールボップ彗星というのが地球に大接近したのだ)と言えば天体望遠鏡をもらってきてくれた。
登山がしたい!と言えばすべて計画してくれた。
仕事も定時より遅く帰ってきたことはほぼなかったと思う。野球が苦手な僕とキャッチボールをしたり、持久走が苦手な僕とランニングをしたりした。中学生の頃バスケットを始めた僕と兄貴のために自宅にゴールをもらってきてくれた。そして庭をアスファルトにして、コートを作ってくれた。 僕のやりたいことを否定せず、全部を肯定して後押ししてくれるそんな父親だった。

そんな僕は大学の頃、就職活動を通して悩みに悩んだ。本当にやりたいことを考える中で、役者への憧れが密かに、そして一途にあった。
おそるおそる父に相談した。
さすがに否定されるかもしれないという思いであったが、返ってきた言葉は呆気なくも意外だった。
「知ってたよ。早くやりなよ。遅いよ。じゃあやるなら文学座だな」 即答であった。

それから僕は役者への道を進みはじめた。ふとあるとき、僕は父に何を叶えてあげられるだろう。形ではなく、なにかで恩返しはできないかと考えていた。

それから数年後、二人で久しぶりに登山へ行った。道中、父は急にこんなことを言った。
「俺の夢は本当は教師になることと役者になることだった。でも息子たちが二つとも叶えてくれた」(兄は教師である)

感服した。頭が下がる思いである。
この言葉がたとえ嘘でも本当でも死ぬほど嬉しかった。

このときほど、父の背中が大きく感じたことはない。僕はまだまだ父の背中を追っている。そんなことを思いながら大きな山を父のうしろから登っていた。

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